Google+ 月イチ海外旅行プランナー: 帰属意識喪失と月イチ海外の相関について。

2011-01-06

帰属意識喪失と月イチ海外の相関について。

自分がいろいろな土地に出掛けるとき、事前に情報を集めることがある。それは、そこの土地に関する歴史だ。

いきなり大きな話になって恐縮だが、世界には様々な国があり、宗教や文化、人々の考えもさまざまだ。ここまでは当たり前のことと思われている。しかし、意外とそれらに対する好き嫌いや感覚を、特に根拠もなく、いつの間にか刷り込まれていることはないだろうか。

ここで特に強調しておきたいのは、何か考えた上での良し悪しを判断しているようなケースではなく、考えもせず刷り込まれている価値だ。日本にいれば、クリスマスをキリスト教徒でもないのにイベントとして楽しむ光景で溢れている。さすがにそれはちょっと変だと思う人は多くいると思うが、さらに突っ込んで言えば、ムスリムではないのにラマダンをやろうという人は、恐らく極めて少数か、そもそもいらっしゃらないはずだ。

この理由としては、商業主義・マスコミ・広告による影響、政治的理由や歴史的背景、快楽との結合容易性などが入り混じっており、その理由を特定することは困難だし、あまり意味がない。ここでポイントとしたいのは、世界には知らないものも含めて多様な選択肢が存在していて、考えてみれば今やっていることよりも違う道を選ぶかもしれないのに、いつの間にか選ばされていて、しかもそれが常識・非常識の感覚にまで浸潤しきっていて支配されているという事実だ。

つまり、入ってくる情報は、現在は生まれながらにしていつの間にか偏っており、自分の物事に対する感覚も偏っている。正しいも悪いもない。偏っているだけだ。それが事実だと思う。これを当然に意識できている人は、あまり多くないように感じる。

例えば、日本では一夫一妻が定められていて、不倫なども文字通り倫理的に反するということで、社会的には許されないこととなっている。しかし、その理由については、意外と説明できない人が多いのではないか。なぜ説明できないかといえば、誰かが考えてそうしたわけではないからだと思う。いつの間にか、一夫一妻が正しいことであり、もっといえば、それが自然に心地よく感じられることとして刷り込まれているだけだ。最近は、離婚は社会的に受け入れられつつある印象を受けるが、かつては離婚もかなりのマイナスイメージのアイコンを有していた。そういった変遷から考えれば、一夫一妻のみを良しとする社会に変化があってもおかしくない。

自分としては、一夫一妻でも一夫多妻でも、多夫一妻でも、なんでも好きにすればいいと思っている。宗教も、どれも自分が身を投じようとは思わない。これらは、多様性として存在して良いと思っているが、これらの多様性のうちの一つに縛られることは、意味がないことだと思う。

何かの価値観を正しいと信じて、他人に強制し、異なる価値観を排除したいという欲求が生まれるから、他人を迫害し、暴力が生まれ、戦争も起きるのだと思っている。人間は、他人と価値観を共有することの心地良さと、強制することのジレンマを解決できていない、未熟な存在だということだろう。

大袈裟かもしれないが、自分としてはっきりと言えることは、海外に駐在し、それをきっかけとして旅行に足繁く出るようになってから、自分の価値観には、いかに無意識に刷り込まれた部分が多いかを思い知らされたということだ。そして、自分が知らないうちに従っていた価値には、大した根拠も理由もないものが多いことも、身をもって知ることができた。ただ、周りの人間がだいたい同じ背景を持った国内の日本人だと、多様性を感じる機会がなかっただけだ。敢えて意味のない価値に従う理由を挙げるとすれば、周りと軋轢が生じない=生きやすいというくらいだった。この理由は、ほとんどの人にとって大きな理由になり得るだろうが、少なくとも自分はそこまで考えてはいなかった。単に無意識に従っていた部分が大きかったということだ。

いろいろな国に足を運ぶにつれて、自分の土地はもちろんのこと、旅先の土地は、いったいどういう経緯で現在のような状況に至っているのかに、強く興味を抱くようになった。歴史からは、その土地の人々が無意識に承継してきた文化の理由が垣間見えるように思えたからだ。

自分はこの先、一つの価値観に縛られることもないし、他人を縛りたいと思うこともなさそうだ。今は、縛られたくないという欲求だけがある。そしてそういった考え方を助長したのは、旅先で巡り合って、体験してきた多様性の積み重ねだと思っている。このように、流浪的に世界の多様性を吸収してくると、自分がいったいどこの所在の人間だか、分からなくなってくる。日本人だとしても、いままで無意識に共感してきたことに、当たり前に共感できないことばかりになってくる。つまり、帰属意識がどんどん薄らいでいく。

これは、多様な事実から思考し、選択できる機会を得る意味では幸せであるし、日々の生活でいちいち無意識的に共感できない価値にぶち当たるようになってしまうという点では、知らぬが仏という見方もできる。帰属感の喪失は、自分が旅を経て得てきた大きな価値観の変化の一つだ。

さて、旅先では、その土地の多様性に触れて身を委ねることはあっても、旅人として扱われるが故に、その土地の人の価値に縛られることはない。いくら濃密なイスラム圏に旅行して、当地のルールに従うことはあっても、着くなりイスラム教に改宗を迫られることは稀有だろう。つまり、旅人の方が、思想的に圧倒的に自由なのだ。

一方で、国に帰ってくれば、じつは従うべき大した理由がないことに、周囲が当たり前のように無意識に洗脳されているため、その価値に縛られている社会での生活を余儀なくされる。洗脳されているだけで放っておいてくれるなら良いのだが、その価値を素晴らしいモノとして、共有するよう勧めてくる「布教活動」は、自分にとっては厄介だ。

自分にとっての月イチ海外は、唯一、自分を自分が求める状態に解放することができる手段なのだと、最近は思っている。