Google+ 月イチ海外旅行プランナー: 閑話休題:旅で感じる depth & diversity の効用

2010-08-23

閑話休題:旅で感じる depth & diversity の効用

このブログを始めるにあたって、その時の思いを振りかえることができたらと言う思いで、「」というポストを設けてみました。今回は、少し世の中に対する諦観・批判めいた内容も含めて(笑)、改めて旅について思う所があったので、これも後々の振り返りのために、残してみようと思いました。

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最近はブログやツイッターを通じて、見知らぬ方々の考えをうかがい知ることができるチャネルが多くなってきました。その中で、他人が流している、いわゆる「主張」(論評や感想めいたもの)に、短絡的で薄っぺらい印象を受けることがあります。

一方で、確実に役に立つものは、私が一人では知り得ない「情報」です。新鮮なニュースであったり、斬新なアイディア、いわゆる事実や知識、提案として整理発信されたものは、自身の身の処し方を考えるにあたり、とても役に立つなと思っています。私のインターネットの使い方は、ほとんどが事実としての情報を得る用途です。

ということで、ニュースの感想や、個人の思想・考え方、歴史考察などの文章は、短絡的で不足感があることが多いという話ですが、なぜ役に立たないと思うかというと、一面的な正義だけを主張していたり、論旨構造が弱かったり、解決や前進につながることが書いていないからです。アウフヘーベン(止揚)という弁証法の考え方がありますが、いずれも事実としての前提をきっちり含んだ上で、それらを超える内容が含まれていないのです。こういったものは、偏ったものとして、意識的に鵜呑みをしないようにしています。

宗教がらみの話、外資系生命保険のライフプランナー、ボランティア活動、ねずみ講などで、自身が語ることは明らかに素晴らしい、あなたも一緒に幸せになろう!ということを、自身の思い込みをもとに接してくる人、本当に苦手です。なぜそのように矛盾に満ちた狭量な考えに一途になれてしまうのか、そして他人にも共感を求めるのか。。

さて、とあるシーンで「他人が嫌がる事を平気で頼める人間が存在する事にびっくり」という表現に触れることがありました。何気ない日々の感想でしょう。言わんとすることは、よくわかります。共感される方もけっこう多いのでは?と思います。私も基本的には同感ですが、ここで私が?と思うポイントは、某氏が「びっくり」しているというところです。

私からすれば、そのように自分と感覚が異なる人間は、当たり前のように存在するわけなので、びっくりすることではないのです。この某氏は、自分は明らかに正しい感覚を持っていて、相手も(自分と同じように)嫌だと思うはずのことなのに、平気で自分に依頼してきた!という、全く違う考えや振る舞いの人に遭遇したから理解できず、「びっくり」したのでしょう。

この例で言えば、私にとっては、自分と違う人がいるのは当たり前ですから、少なくとも「びっくり」はしません。相手が自分と同じように「嫌なこと」と思っているかどうか、そもそもわかりません。何か事情があるかもしれません。逆の立場だったら、もしかすると相手はOKをしていたかもしれませんね。そういう様々な可能性があることを当然に前提とした上で、「それで?」という問いに対する解を、自身の主張内では齟齬のないレベルに高めて提示することで、初めて役立つ情報になり、相互解決への道が出てきます。

上記の一文だけでも、自分と感性が違う可能性を予想できずに「びっくり」しているという事実から、その感性の浅さが容易に推察されてしまうのは、皮肉な事実です。相手は、当然に自分と同じく正しい感性の持ち主だと思い込んでしまっていて、それと違っていたら「酷いことを平気で頼んできた」という浅い感じ方で止まり、それ以上に相手の思考や背景を理解するシーンまで至らないという、コミュニケーションスキルの低さが垣間見えます。

私は、自分が「正しい」と思っている価値観は普遍的だと、色々なシーンでうっかり信じてしまっている方は、本当に考えが浅くて、感性が鈍いのだなと思ってしまいます。価値観には正しさもないし、間違いもないというのが、キレイごと抜きの事実です。しかし、ある考えを短絡的に正しいものとして信じてしまっていて、さらに人に正しさという旗印をもとに無神経に伝えるほうが、その一途に信じる力の強さによって、結果的に洗脳される人も多く出てきてしまい、いろいろな意味で仲間を増やして成功しやすいというのが、一方では残念な事実です。

話を元に戻すと、上記の例で言えば、某氏と私が同じ場面に遭遇したとして、考えることには以下のような違いがあると推察されます。

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某氏)自分は、相手が嫌がることは平気で頼めない。それは正しいことだから、相手もそうあるべき。相手が自分と同じ正しい感性でないことが驚きで、相手に非がある。相手が自分と同じ感性なら万事解決。

自分)人々の価値観は違うものだから、それを前提に自分がぶれなければよいだけ。自分だけが正しくもないし、必ずしも相手に非はない。自分とその瞬間は条件が合わないだけで、折り合うところはないのか?組み合わせて良くならないのか?を考える。

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上記某氏の考えは、正しい主張は通るべきと思っていて、その主張が通れば、世の中は皆にとって暮らしやすくなると思っているかもしれません。これは、現実的であれば、ある意味正しいですが、非現実的です。価値観は個々人や状況において異なるものであって、正しいも間違いもありません。

また、自分は他人に対して、嫌がることを依頼していないという確信がなければ、上記のような考え方がでてきません。自分への能力過信があるからこそ出来ることです。知らないうちに、自分の行為によって、他人が嫌な思いをしているという想像力が欠如しています。そういった、気付いていない未知の領域が常に存在しうるということを、自然に理解できていないからこそ、こういった傲慢な発言ができてしまうのだと思います。

自分は全てが分かってはいないという謙虚さを、事実として持っていないにも拘らず、自分は正義であり、人のためになるような考えの持ち主だという主張をする人や発言自体が、私は本当に虫酸が走るほどに嫌いです。そして、そういう方は少なからず存在し、さらにその表面的にはまともそうな主張だけを受けて、本当に人格者だと素直に共感されているケースは少なからずあるようだと感じるにつけ、自分のような多面性を感じ取ってしまい、欺瞞がすぐに見えてしまう人間は、とにかく暮らしにくい世の中だなと思います。

このように「考えや感性に diversity も depth もない人」が、どうやらかなり多く存在しそうで、それらの人々が鈍感に半端な主張をしたり、それに干渉されたりしながら、カオティックに偏った価値観を量産共有しているのが、現実社会なのだということを否応なしに感じています。さらに、偏った意見や考えであるにも拘らず、あまり深く考えることなしに、自分の考えや感覚として安易に受け入れて、それを再発信してしまう人が多いことを、事実として理解しなければならないのは、辛いことです。

ある一時期「鈍感力」という本がベストセラーになり、言葉としても流行しました。この「鈍感力」を持ちあわせている人が、暮らしやすい世の中になりつつあると思います。ここでいう「鈍感力」の意味は、多面的な価値観を無意識のうちに無視できる力のことです。最近思うのは、こういった鈍感な日本人(おそらく日本語で書いてあるので、日本人の確率が高いでしょう)が、インターネットで垂れ流している文章に遭遇することが多いということです。特にtwitterはひどい。考えを披露する目的に全く向いていないメディアで、まとまりもない質の低い文章を、twitterの特性を活かすことなく垂れ流している方々は、こういったことには考えは及んでいないでしょう。

テレビや新聞等も、ニュースを事実として流す部分は価値が高いのですが、そこに加えられた論評についていえば、偏向的で深みもないことがほとんどです。例えば、最近の若者は外国でマナーが悪い、こんな事例があった、社会全体で再考の取り組みが必要だ、みたいな内容です。これは本当に平板な酷いレベルですが、こういった人間が、それなりに多くの影響力を及ぼす立場から事実の仮面をかぶって発信してしまい、ごく一面的な見方だという認識すらできずに、それに素直に影響される人がかなり多くいるのが、現実の世界です。その事実から思うに、どうやら世間というものは、鈍感かつ浅い考えで動いているということは受け止めねばならず、そういった人々には、今回の文章の意味するところを理解することは難しいと知るべきだと思っています。

私には他者に自身の考えで干渉したり、強要するつもりはありません。考えに正しい・間違いはありませんし。しかし、レベルの高低は絶対的に存在します。他人に干渉しないという考え方が、たとえば「寂しい考え方だ、逃げの人生だ」というような発言をする人もいるでしょう。自身が本当にいいと思えることは、その人の感じたことですから、その方にとっては事実です。

しかし、私にとっては、その人の感想は、自分にかかわるあらゆる事象の中の、ごく限られた一面の、本当にちいさな一事象にすぎません。あらゆる事象をなるべく多面的に包含して解決できる考えが、レベルの高い物事の捉え方だと思っています。簡単な例を出せば、寂しいという一面で捉えることもできますし、自由だという別の面で見ることもできるわけです。そういった多面的な見方を含んだ考えを巡らせ、また感じられてこそ、一段高いレベルの考察や解決が得られるのではと思っています。上記の「さびしい考え」という感性は、「貧乏な人がかわいそう」という短絡的な感覚と同様の低いレベルです。

「鈍感力」の高い人は、発現する言動のレベルは浅く低く、多面的に深く物事を感じ取ることができず、自分を正しいと疑うことをせず、それが上手くかみ合ってしまうことで、他人にも鈍感に干渉し、それが通れば自身が幸せを享受できるという天使のサイクルに入ります。信じる者は救われるという言葉の通り、それが達成された個人にとっては、幸せなことです。鈍感であるが故に、空気を読まず、干渉力は高いわけです。少し本題から離れますが、信教や結婚などで得られる幸せと、この鈍感力による幸せは、多面性という現実世界の事実が一定程度無視された上で、一定以上のマジョリティグループが究極の良いものとして信じ込むという点で、似た要素を持ち合わせていると思っています。

私は、この「鈍感力」が高いだけの、感性が弱い人間には、干渉されません。思考が浅いので、どうやっても干渉されようがないのです。しかし考えが浅い人々同士が「鈍感力」によって征服されている感のある世の中は、多面的な価値観に気付く「敏感力」が高い人たちにとっては住みにくいようです。それが現実です。

私は、多くの人々が「鈍感力」に押し切られることなく制御され、止揚に導けるようになる時には、人間の社会性について、一段レベルを高められる可能性があるのだろうと思っています。が、「鈍感力」という本がベストセラーになるような世の中では、全体のレベルが高まる日が来ることはないでしょう。相互理解は、ただのキレイごとに終わることが自明です。

また、「鈍感力」は、その個人にとってはよいですが、決して全体や相手にとっていいものとは限らないわけですから、コミュニティを壊す方向性を持っています。「鈍感力」が力を得ていくとすると、その果てにあるものは、鈍感同士が両立できなくなったときの矛盾です。どんなに鈍感でも、自分を上回る鈍感から干渉され、自分の感覚を踏みにじられた時に、何かおかしいと思う日が来るわけです。

おかしいと思う人々が多数を占めて影響力を発揮する段階になって、世の中は少し敏感の方へ揺り戻されるでしょう。しかし本質的にコミュニケーションのレベルが上がることはなく、鈍感が敏感を干渉するという構図はかわらず、鈍感の程度が高いか低いかを行ったり来たりするだけで終わるのでしょう。これまでの歴史を見ても、ずば抜けて鈍感な価値観が、あらゆる意味で世を席捲しては、滅んで次の鈍感に変わってきました。それは宗教であり、法律であり、主義であり、地域ごとのモラルであり。もし世が変わるとすれば、多様性を理解し、共感できる人間が、社会の多くを占めるようになることですが、多数を占める人間の平均思考レベルでは、これまでの歴史を経ても、そのレベルまで考えられない(頭が本当の意味で悪い)のだと思います。能力的な限界ですから、止むを得ません。

私のテーマを挙げるとすれば、理解できない人間の能力的限界は、どのように解決されるかというものです。しかし他人を理解することは幻想である以上、このテーマ解決は遠そうです。それならば、そのような難しいテーマの解決よりも、自身が超鈍感の振りをして、世の中に合わせて楽をすることが最も現実的かつ享楽的で良いかなと、最近は思っています。一人で暮らせるのであれば、仙人のような生活が本当は理想ではあります。人間の一世代ごときの短い期間で解決できないものだからこそ、これまで解決されずに残ってきている問題なのかなとも感じます。

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さて、ようやく旅行について触れますが、私が旅行を好きな理由は、こういったむやみに一方的な鈍感力の攻勢から無条件で解放されるからといえます。

旅先では、こちらは多様な価値観に触れる異邦人となります。旅先ではあくまでも多様性の一時的な体験者であって、それに心から継続的に身を投じるよう強制されたり、干渉されることはありません。そして、世界の人々の考え方、文化、歴史、地理などさまざまなものの多様性に触れ、自らの感性も、そういった広範な多様性を事実として認識するようになります。相手は自分と違うことが当たり前だと知ることができますし、それぞれの事情でそれぞれの価値があり、相手も旅人の自分に対し、自己と違うことが当たり前という前提で接してきます。違うことがスタートラインであり、その接点は一時的なものです。

事実として、さまざまな相手の姿や考えを認識し、自分の立ち位置を再確認し、人として相容れるところを見出し、適切な距離感を探り、自らの進むべき方向性に思いを巡らせる。そういった機会が、旅行や、異国での生活を通じて、もたらされるようになります。

私は、旅行や一時的な異国生活ではなくても、日本における実生活も同じスタンスであるべきだと思っています。外国と、同じ文化圏にいる同じ国民という程度の差はあれ、違う人間同士が生活している以上、相手の考えを別個の価値として当然に認めた上で、相容れるような道を探すことが良いのだろうと思っています。

旅では、自分とは違う人々がそこにいることを、当たり前のように理解しているのに、シーンが普段の生活に戻ったら、相手は自分と同じ感性で理解してくれるはずだという思い込みが先行してしまっていることはないでしょうか?暗黙知の共有という幻想に頼ることは、ただの怠慢であって、それを形式知にしようと努力してきている、暗黙知に頼れない環境で育ってきた人に、能力的に凌駕されていきます。

旅における多様性との邂逅によって、自分が普段正しいと思って口にしてきた考えや価値の浅さ、偏狭さ、そしていかに鈍感であったかということを知り、自分が生きる広い世界の実相を前提として、本当に価値があることとは何かについて、人として考えを高めることができます。それはそのまま、自らの普段の考えやコミュニケーション、あるいは仕事、生き方のレベルの高さに反映されてくるものだと思っています。